便利さは人の思考能力を低下させるのか?2

便利さは人の思考能力を低下させるのか?
の続き。
たとえばプログラミング言語の話。Javaはガーベッジコレクタという便利なメモリ開放の自動化機構があるので、プログラマはメモリがどう確保されてどう開放されているかとかを(基本的に)考える必要が無い。C言語しかなかったらそうはいかない。プログラマはメモリについて考えなければいけない。でもそのC言語もCPUの違いを吸収してくれるコンパイラがあるのでCPUについて深く考える必要がない。世の中にアセンブリ言語マシン語しかなかったら、プログラマはCPUについてよく考えなければプログラムが組めない(と思う。。。実際にアセンブリ言語でコーディングしたことないのよ)。

私はWebアプリの開発が主な仕事なのだが、WebアプリをC言語アセンブリ言語で作ったことはない。もしそのような言語で作ると仮定した場合、生産性はがた落ちになるだろう。考えなければならないことが多すぎるからだ。一方現在は何も考えないでものを作っているかというとそうではない。考えることは別の領域にいっぱいある。ソースの可読性、共通化、拡張性、UIの使いやすさ、生産性、統一性、負荷分散。。。その他いろいろ。

そう考えると、結局便利さがもたらすのは思考時間の「消失」ではなくて「移行」になるのではないだろうか。つまり考えるべきものの対象が動いただけなのだ。こうなると今まで時間を使うことができなかった領域に思考を集中させることができる。新しいサービスや価値とかはこういうところから生まれるんじゃないかなあ。

すごく乱暴に言い切ってしまうと「便利になることで思考能力が低下する」と危惧する人は結局、時代の流れについていけてないだけじゃないのかと。その人の価値観、常識、能力、人格を作り上げてきたのはこれまでの経験だ。だから便利さでその経験(や経験の中で考える行為)が無くなると、自分のもっている価値観や能力が社会から失われる(=低下する)と感じるのではないだろうか。それは事実かもしれない。でも失われたことをもうちょっとよく見てみると別の価値観、別の能力の創造につながっている。社会が変化しているのだ。古いものは消え新しいものが生まれる。そういうことだ。

でも一方で人間の根本はそんなに変わらないので、古くても本当によいものは文化として残ったり愛されたりするんじゃないかなとも思う。